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SYNCHRONICITY’16 –Autumn Party!!- People In The Pox × ART-SCHOOL @duo MUSIC EXCHANGE (2016.11.16.)

ART-SCHOOL

木下「多幸感でいっぱい」「あーっ 幸せだなーっ」

喉のポリープ治療で使ってるステロイドのせいで、理樹さんが「多幸感でいっぱい」になっていた。ほんのりとドラッグ感が漂い、普段の刹那的な脆さとは違った方向性で危うげだった。とでぃがMCで言ってたけど、ステロイドは、現実とはかけ離れた幸多感・不眠・毛深くなる(謎)といった副作用があるらしい。ふわふわの状態でライブしてたってことみたい。LOST IN THE AIRエフェクター踏み替えも、よいしょって感じで若干間延びしてたのはお愛想。夜の子供たち、シカゴやってくれて歓喜

▼スカーレットの入りを間違えた戸高氏
戸「すごいイントロ似た曲があって…(動揺してる)」→コードを押さえ、一回一回うなずきながら弾き、確認する
戸「初めてだよこんなの」
木「俺もトディが間違えるの初めてだよ(驚)」
お客さん「ザワザワ(驚)」
戸「あー…ほんとすいません…」(こんなの失格だ…恥だ…感がにじみ出てる)
木「大丈夫!!トディ大丈夫!!」

▼スピーカー(アンプ?)から変な音が
単調なハウってるような音がする→ローディーさん登場、理樹さんのところへ
戸「何かあるとすぐ疑われる木下理樹
お客さん「www」
戸「ローディーさんすぐ理樹さんのとこ行きましたからね」
木「機材トラブルが…っ」

▼Peopleとの思い出
木「ピープルとはトディの方が付き合い長いよね」
戸「アートやる前から付き合いある。もうずっとロック続けてるんだなと思うと誇らしい(的なことを話してた)」
木「…ピープル良い曲多くて嫌になるね。」

▼もっと盛り上がってほしい
木「(ライブで)燃え尽きた魂を(僕たちが)返しますので、あっ…暴れっ…て(噛)」
戸「こんなんで燃え尽きる魂ですか!?」
お客さん「www」
木「(手を大きく二回叩いて大ウケ)」


People In The Box 

ライブ見るのは初めてだった。大きく残った印象は「隙が無い」ということ。波多野さんの人柄とか、演奏もそうだけど、作り込まれた脚本の舞台を見ているような完成度の高さだった。真っ白な絵の具で世界を殺菌するようにすべてを塗り替えていく。彼らがキャンバスに物語を描き、ひとつの世界を創造していく場面に立ち会い、感覚が麻痺したようだった。あと波多野さん、めっちゃ華奢。

▼「多幸感でいっぱい」についてのコメント
波「現実離れした幸福感、とは(ニヒルな笑み)」
 「そりゃ現実離れした幸福感だったら眠れなくなりますよね。」

▼今日のイベントに関して
波「まったくタイプの違う力士同士の取り組み」
 「今日の試合、けっこう良かったんじゃないですか?」
 「普通だったら、どっちかがお願いするから『ありがとうございます~(手を合わせてスリスリする動作)』ってなっちゃうけど」
※今回の対バンは、シンクロニシティというイベント企画なので、バンド同士に呼んだ・呼ばれたの関係は無い、ということを踏まえたMC

▼理樹さんとの思い出
波「理樹さんとはよく会ってるので彼に対しては新鮮味はないですけど(断言)」
~以前、波多野さんと理樹さん、sleepy.abの成山さんで飲んでた時のエピソード
波多野さん、「○○(何かバンド名?)の話をしておいて」って理樹さんに頼んで席を立つ→帰ってきたら成山さんの目が真っ赤→理樹さんが目潰ししてる→波多野さん、止めようとする→自分まで目つぶしされそうになる→横に理樹さんを投げ出して回避
波「(この件について)覚えてる?って聞くと、(理樹さんは)『覚えてない』って言うんです。でもお酒飲んでる時には『酔ってない』って言うんですよね。」

続・BUMP OF CHICKENとsyrup16gが好きなあなたに読んでほしい

夢って何だろう。叶った方がいいのか、叶わなくてもいいのか。

BUMP OF CHICKENの「分別奮闘記」とsyrup16gの「夢」を聞くと、どっちなんだろうと、不安定に揺れ動く。

ゴミも夢も、生活から生まれて、捨てられる。今回はそんな共通項を思い起こさせる二曲を比較しようと思う。

この二曲、まず「不燃物」をどう描くかが違う。

バンプは不燃物を夢だとして「信念」を見ている。他人によって燃やせず、灰になることもない夢。意志の宿っている夢を、燃やせないと表現している。

一方シロップは、不燃物に「揺らぎ」を見ている。煮詰まり、妥協して生み落とされ、最後に灰になって消えることもない中途半端さ。誕生してから消滅するまでの過程、言ってしまえば「燃えないゴミ」の存在自体が不完全燃焼なのだ。

シロップの歌う「燃えないゴミ」って何の比喩なんだろう。ストレートに夢の比喩なのだろうか。歌詞カードだと「燃やせないゴミすら/(改行)夢」ってなってて曖昧だ。

次に、夢を叶えるという行為について。

叶わなかった夢は叶わなかったまま残しておけばいい。夢を捨てたり忘れたりして、なかったことにしたり、恥じたりしなくても良いじゃない、と歌うバンプ

夢は不燃物なのか、粗大ゴミなのか。そして捨てるのか、夢として取っておくのか。これらは全て自分の捉え方と選択によるもの。他人に「燃えるゴミ」って紙貼られたって、自分には燃やして灰にできない夢だったりするんでしょう。

諦めたい、忘れたい夢を「ゴミ」になる寸前のところで「夢」に分別し直すドラマである。

でも、夢って本当に叶ったら、人生どうなるんだろう。その問いを突き詰めて諦観に突き当たったのがシロップだろう。

夢を叶えてしまったことで、欲を失って、生きることに期待しなくなった心情を表現するシロップ。叶わないこと、一生手が届かないと思っていたものを手に入れたときの脱力感。

このあたりは、BUMP OF CHICKENプラネタリウムにも似通った描写がある。

やめとけば良かった
当たり前だけど 本当に届いてしまった
この星は君じゃない 僕の夢
本当に届く訳無い光
でも 消えてくれない光

叶わないからこそ、ずっと追いかけていられて、生きていける。理想は理想のままで、ずっと夢を見ていられる。

叶わないと言われる夢でさえ叶ってしまったら。本当に何もかも満たされてしまったら、生きるのが平坦になるだけなのかもしれない。

夢を持ち続けること。生に貪欲であること。この二曲を比較してみると、夢を追い求めて幸せになろうとする行為自体が幸せなのだ、という考えすら浮かんでくる。人は、求めるものや望むものがあってこそ、強く生きていられるんだろうか。

こんな解釈をしてみましたが、どうでしたでしょうか。バンプもシロップも、受け取り手に残された余白の広さが魅力的だなあ、とつくづく思います。

ラフ・メイカー vs サッドマシーン ~あなたを救うのはどちらか?

BUMP OF CHICKENART-SCHOOLにはそれぞれ「ラフ・メイカー」、「サッドマシーン」という曲がある。ともに機械のような名前を冠した曲だが、歌詞を追っていくと、あくまでそれぞれが本当は機械なのではなく「(架空の)人物」であることがわかる。ある役割をもった人物を、特定の働きをするために製造される「機械」になぞらえた、ということだろう。今回はこの「機械」をモチーフにした二曲からBUMPとARTの描く「救い」について考える。

 BUMPのラフ・メイカーは、部屋で泣いている主人公の部屋に突然やってきた人物で、「名乗る程たいした名じゃないが 誰かがこう呼ぶ“ラフ・メイカー” アンタに笑顔を持って来た」と自己紹介する。ここで、主人公は「ラフ・メイカー? 冗談じゃない! そんなモン呼んだ覚えはない」と叫ぶのであるが、ここがポイントだと思う。主人公は、助けが欲しいと言っていない。あるいは助けてと言えない。そして「構わず消えてくれ そこに居られたら泣けないだろう」と強がる。だが、主人公のもとには「ラフ・メイカー」という助け人が、救済のチャンスが訪れているのである。

 BUMPの歌に出てくる主人公は、その孤独な苦しみを救ってくれようとする誰かが作中に登場することが多い。こういう曲は、他にもあって、例えば「太陽」とか「Title of mine」とか「ハンマーソングと痛みの塔」とか。一人で苦しみの淵にあるとき、誰かが助けてくれようとするけれども、差し出された手を「ありがとう」と握り返して素直になれない主人公たちの歌だ。

 平気なフリをしていても見抜かれて、誰かが強引にでも救いの手を差し伸べてくれる。そんな温かな救済の物語がそこにはある。助けてと口に出さずとも、大丈夫?って気にかけてくれる人が現れて、自分も勇気を出して素直になれる。BUMPの曲には、「他者の歩み寄りによる救い」が最終的に待ち受けているのだ。

 一方のART-SCHOOLのサッドマシーンだが、主人公は何を叫ぶのか。

Sad machine
You’re sad machine
俺を救って
Sad machine
You’re sad machine
精一杯の笑顔で 助けてよ

(サッドマシーン/ART-SCHOOL

 「まるで機械みたいな笑顔ね」とある女性に言われ、彼女に見放された主人公は、精一杯の笑顔で「助けて」と叫ぶ。この曲、「灰になる前に 助けて 助けてよ」の一編で終わっている。醜い弱さをさらけ出し、「助けて」と叫んで救済を求めるものの、最終的に救いは訪れないのだ。アートは、取り残される主人公を美しく殺しておく描写が巧みだし、この絶望こそがART-SCHOOLの美学だ。

 ここで登場するのがサッドマシーンであるが、ラフ・メイカーほどキャラクターめいていないし、ラフ・メイカーのようにやってきてくれるわけではない。はたまた自分から救いのアクションをすることもない。それはサッドマシーンがyouという特定の人物であるからだろう。自分の望み通りに自らを救ってくれることのない「あなた」を、思い通りに操れるはずの「機械」に例えるというのは、ある種パラドックスだ。

 "Sad machine You're sad machine"とは、救済や慈悲を求める呼びかけみたいなもので、見放されても尚、彼女にすがってしまう「僕」の悲痛さが胸に迫ってくる。

 サッドマシーンとはどのような比喩なのだろう。愛を知らない、感情がない、人間味がない。欠落によって生まれる悲しみ、またそれを憐れむ主人公の視線・信仰。そして、情けをかけ、信じたものには救いを求める。たとえ裏切りが待ち受けているとしても。見捨てられたり、裏切られたりしても、一度自分を救ったものへの信仰は簡単に捨てることはできない。そして、惨めさを抱えながらも、変わらず救いを求めてしまうのだろう。

 孤独な「僕/私」の世界が「君」によって肯定されて広がる瞬間の救いを描く歌がBUMPのラフ・メイカーだとしたら、「僕/私」の世界が「君」によって否定されて孤独に崩れ去る瞬間の救われなさを描くのがART-SCHOOLのサッドマシーンだろう。

 どちらの曲で、あなたは救われるだろうか?

サカナクションのNF行ったことない魚民がNFについて思うこと

ぐだぐだサカナクションのNFについて書きます。


この前のNFで写真撮影やサインについて、色々とあったらしいというのをTwitter上で目にして、以降ファンの人たちがあれこれ思い悩んでツイートしてるのを見た。

この騒動見て、高校の時の先生が「授業中にペットボトルを出してるのを注意するなんて本当はしたくない。ペットボトルが出てる出てないなんて、そんな些細なことを授業中に問題にするのが残念。」みたいなこと言ってたの思い出した。

要は、教員と学生が同じ方向を向いて授業に臨めているかが重要で、同じ方向を向けて熱心に勉学に取り組めているなら、ペットボトルだろうがお菓子だろうが机に置いてあっても関係ない、みたいなことが言いたかったんだと思う。

NFで、サカナクションと一部のファンは同じ方向を向けていなかったんだろうか。

自分自身、NF一回も行ったことないから今回の件をよく理解できてるとは言えないけど、「写真撮影禁止」とかいうことをクラブイベント中に問題にするのって、若干野暮なのでは。ただ問題なのは写真撮影自体ではないはず。写真撮影禁止は一時的な荒治療みたいなものでしょう。他に改善すべき点があるんだと思う。

例えば、音楽を楽しむっていう姿勢に向かえない、っていう音楽リテラシー育成途中のファンたちが過剰な写真撮影に走っちゃったんじゃない?じゃあ、どうやって探す遊びを覚えてもらおうか?とか。サカナクションのファンって、その辺の身体能力が元々高そうだから、イケるかと思ってたけど違うのかなー。決して「アイドルとして見てる」っていう結論に飛躍したりせず、まだ「音楽の遊び方が分かんない」ってだけだと信じたい。

サカナクションだって写真撮影禁止ねとか言いたくて言ってるわけじゃないし、何でミュージシャンなのにこんなこと言わないといけないの、みたいな感触はゼロではないはず。高校の先生の理論でいけば、「音楽を楽しむクラブイベント中に写真撮影してるのを注意するなんて本当はしたくない。そんな些細なことを音楽を楽しむイベントで問題にするのが残念。」ってことでしょう。

サカナクションは自称普通の音楽好きの兄ちゃん姉ちゃんだから、彼らが音楽を楽しんで音楽以外のカルチャーに手を伸ばしてるように、魚民さんたちも、シンプルに音楽と音楽にまつわるカルチャーを面白いと思ってくれたらいいんだろうけど。

でも、いつもはでっかいステージでバンドやってる人たちを目の前にしたら、舞い上がるのも当たり前だ。それは分かる。だってもう次にチャンスがあるかなんてわかんないじゃん。チケット取れんもん。

NFは総じて「学びの場」として機能すればいいと思う。音楽以外のカルチャーを見つける、新しい音楽に出会う、音楽の遊び方を覚える。だから、これから回を重ねるごとに魚民さんが全方位的に学んでいって、もっともっとレベルの高い遊び場であり、教室になればいいなと期待してます。

ART-SCHOOLの「ecole」と映画「ecole」が紡ぐ少女の物語について

この前の木下理樹生誕祭行ってから、ART-SCHOOL好きに拍車がかかり、もっと掘り下げたいと思って悶々としていた。そんな時、あるTwitterの投稿で「オススメの少女映画」なるものがあり、見てみるとその中の一作品に「ecole」の文字が。

まさかAnesthesiaの一曲目の「ecole」って、少女映画が元ネタなのか....!?ART-SCHOOLって曲名を映画の題から借りてるのもあるらしいし、ecoleもそうなのかもしれない。そこで、新たな扉を開いてしまうのではとドキドキしながら、ecoleを、鑑賞いたしました。

まずジャケットが、深い緑色の森を背景に、白いプリーツスカートを履いた女の子の後ろ姿(上半身は見切れてる)っていう、この狙ってる感からしてヤバめ。
 
見終わって、これはヤベエエエエって頭抱えてしまった。ART-SCHOOLの美しいフィクションの世界が好きな方は、もう見ていただきたい。そしてフェチズムと背徳感で狂おしくなっていただきたい。
 
じわじわと甘美で美しい純真無垢な世界に一度殺されてしまう。そして明日も生きようと思う。再生する。まさにART-SCHOOLの言葉を借りると「ロリータキルズミー」でした。
 
旅立つ寸前の、柔らかで真っ白な真綿のような少女の純真さが、静かな森の中の学校(=ecole)という舞台で描かれている。「少女の成長」が、邪気を排して美しく映像に仕上がってる。故に、時にあざとい。出てくる女の子たちが、少しずつ年齢が違ってるところにドキドキする。こうやって成長して、大人になっていくんだと。秘密の花園ってここかもしれない...と本気で思った。
 
ART-SCHOOLの「ecole」は、映画「ecole」の続きみたいだ。「導かれて僕らは今 知りたくもない答えをしる」「痩せこけた顔の天使たち 粉々にされた純真さ」といったフレーズは、かつて美しくあったものが、くたびれて汚れていくことへの嘆きを想像させる。
 
映画の少女たちが成長し、女性という記号を背負わされて生きていく未来に、何が待ち受けているのか。「僕」に出会った少女たちは、どんな未来を歩むのか。その未来を歌った曲が「ecole」のように聞こえる。
 
「ecoleでも僕ら ecole何処に向かえばいいんだ」という結末は悲劇的だ。だが一方で、二人で彷徨うことは陶酔でもある。 純真無垢であった少女たちは、新たな喜びや幸せを手に、「僕」との二人だけの世界へ飛び立っていくのだ。

floating points @ WWW X

展開・構築美の音楽だった。数式や建築様式が美しい、っていう感覚に近い。均整の取れたギリギリのバランスで成り立ってる理系の音楽。floating points。衝撃的なステージを目撃してきた。

時に、焦りさえ覚えるほどの音の洪水に溺れて頭が真っ白になった。「アゲる」のではなく「引きずり込む」ような音楽。海底火山のような静けさと不穏さ、そして爆発が何度も繰り返された。

円形のスクリーンにレーザーで立体図形が描かれていく演出は知的だった。曲が展開するにつれてレーザーで描かれた線が増え、重なっていくため、徐々に描かれている図形が何なのか分かってくる。曲が組み立てられていくにつれて図形も構成され、最後に曲と図形の全体像がはっきりし、立体感を持って迫ってくる、というわけだ。
 
音が重なって曲になる、線が重なって図形になる。この共通項の落とし所を表現したかのような演出は、視覚と聴覚、両方に訴えかけ、相乗効果でパフォーマンスを底上げする力となっていた。
 
floating points のライブを見て、ふと胸をよぎったのはサカナクションサカナクションのライブからポップとエンターテインメント、そして言葉を間引き続けたら、floating pointsのようになるのでは、と妄想が広がった。
 
そう、floating pointsはサカナクションにも影響を与えているであろう音楽なのだ。彼らのことを知ったきっかけも、サカナクションのインタビューとか一郎さんのツイッターのスクショ投稿だと記憶してる。
 
アーティストが何を見て、感じて、どうエッセンスを抽出してるのか....その"原料"に触れるのは生々しい。時にそのミュージシャンに対する絶対性が揺らぐことだってあり得る。
 
でも、抽出したものが何だったのか、それをどう加工しているのか、その過程を探ることが、そのアーティストらしさを紐解く鍵になると信じている。
 
もしサカナクションがfloating points から何かを抽出しているとしたら、形式美や、視覚と聴覚の相乗効果だろうか。そして、加工だが、エンタメ要素を加えて「アゲる」ことや、言葉で心情を描いて、個人の物語とリンクさせる「歌」としての効果、といったところか。こうして、自身のアイデンティティに還元しているのだと解釈した。
 
floating points 見て、サカナクションってロックバンドでポップなんだってめちゃくちゃ思った。あと言葉なんだ、って。floating points が好きなフロントマンが、サカナクションをやるってことの意味は何なんだろう。サカナクションでやりたいことって何なんだろう。そんなことを考えずにはいられなくなった。

Todd Terje @恵比寿リキッドルーム

Todd Terjeを知ったのは今年1月にOAされたサカナクションの「Night Fishing Radio 」だった。ゲストで佐藤吉春さんというクラブミュージック専門レコードショップの代表の方が出演なさっていて、その時にInspector Norse を流していた。

これを聞いて、これ自分でもイケるんじゃ?と思った。クラブミュージックなんて音楽ツウか遊び好きの為っていう先入観があったけど、ああ、そうでもなさそうだ、と。こんな取っ付きやすい曲もクラブミュージックっていうんだ、と意外に思った。

この時、クラブミュージックに対する敷居が下がったのだった。そして、リキッドでART-SCHOOLを見に行った時に置いてあったチラシで来日すると知り、思い切って飛び込んでみた。

所謂ロキノン系バンド以外のワンマン行ったの初めてだった。集まる人も、雰囲気も、見慣れたものとは全然違った。開場30分後くらいに入場したけど、フロア最前に2〜3列しかできてない。まじか。がら空きのフロアでは、DJの音楽に合わせて5〜6人が各々のパーソナルスペースで踊って体を温めてる。ストリート系の兄ちゃんがダンスキメてる。さらに後方、柵エリアでは、ゆっくりお酒を飲みながらウォームアップするオトナたちの姿が。カルチャーショックだった。パリピの巣窟に足を踏み入れたのかと心がザワザワする。

でもこういう不安は開演しちゃえば吹き飛ぶもので。もっと訳分かんないまま終わるかと思ってたけど、純粋に「うおお楽しいぞこれ!!」って思ってたらライブが終わる、という理想的な形で、初めてのTodd Terje ライブは終了した。"歌"が無い中、ひたすら音を浴びて、付いていくので精一杯な時もありつつ、でもそれが新鮮でとても楽しかった。Todd Terjeのクリアな音の海でゆらゆらと、陽気に揺れて参りました。パッキパキしてたな、音。かなりくっきり鳴ってた。好きです。

クラブミュージックに精通してる人が、どういう風にTodd Terjeを語るのかは分からないが、Todd Terjeは「どこを聞いていれば付いていけるか」というのが分かりやすい、と自分は思う。

例えば繰り返される印象的なメロディー、またそれが移り変わっていくのに付いていければ楽しめるし、裏で常にビートが鳴ってるなら、それに乗っかれば気持ち良い。展開でじわじわ聞かせるタイプだと一曲が完成するまで付いていく忍耐が必要だけど、Todd Terjeの場合はそこまでじゃないかなーと思います。ただ歌はもちろんないので、コトバに頼ることはできない。コトバ以外に引っ張られるものを自分の耳でキャッチしにいくことは必要だなと感じた。自分もまだそんな得意じゃないし、ちょっとバテる。でも楽しい。行って良かった。体験って大事だ。