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Syrup16g tour 2016 HAIKAI @Zepp Tokyo(2016.12.14.)

ライブ記録 syrup16g

ライブ本編も終盤、coup d’Etatの前、ミント色の涼しい照明の中、五十嵐さんはギターを鳴らしながら、ほぼ全く聞き取れない、叫びに近いMCをしていた。辛うじて「音楽だけは楽しい」「もうちょっと一緒に遊んでいってください」そんな言葉をギターの間から拾い上げた。

音楽というフィルターを一枚挟まなければ自由に人と対することができない、彼らしい行為だと思った。別に聞いてほしい、分かってほしい、そういった思いの込められた言葉ではなかったのだろう。聞こえた人が拾ってくれれば、その人の中で理解されれば、こちらからは何も「伝えやすく」配慮する、言語コミュニケーション化する必要はない、と。

確かに、今日のライブに、お客さんとsyrup16gの間に整えた言葉は過剰だった。だって今日は音楽を、syrup16gの音楽を聴きに来ているのだから。今日は「そういうひと」同士の集まりなのだから。

大樹ちゃん「来てくれてありがたいね、っていう話を、楽屋でがっちゃんとキタダさんとした訳じゃないですけど、(2人とも)そう思ってると思います」

Father’s Day~Missing~Murder you know~タクシードライバー・ブラインドネスは今ツアーのセトリの見せ場だった。

Father’s Dayの、煙をこれでもかと焚いて水色の照明と合わせ、ストロボを不定期に点滅させる幻想的な演出は、穏やかな死を連想させ、走馬燈のようだった。Missingでは、ピンクと緑の照明をぶつけて不穏な雰囲気を醸し、ブレイクのところでは真っ赤な照明でキメる。

Murder you knowでは一転、温かみのある黄色の照明で舞台を包み、円錐形に白い光を放つ。そして大樹ちゃんの親し気なMCを挟んで、タクシードライバー・ブラインドネスではイントロと同時に、一気にステージが真っ赤な照明に染まる。

この流れが。めっちゃくちゃかっこよかった。曲目としても、静・動・美がそれぞれに詰まっててシロップの良さが多面的に見られる並びだと思うし、新しく生まれた曲たちのバリエーションの豊かさを改めて感じた。何よりMCの後のタクシードライバー・ブラインドネスはずるい!笑。五十嵐さんも、ギターをストロークさせながら、内心では「してやったりー」とニヤっとしてたんじゃないかと勘繰ってしまう。

ライブ中盤、Share the lightで大樹ちゃんの鬼スイッチが入って、立ち上がり、叫び、シンバルを殴り、めっためたにたいこを叩きまくり、こちらも高まらずにはいられない\(^o^)/

My Love’s Soldでは渦巻く感情がほとばしり、爆発し、熱量を十分に上げてからの神のカルマ。マキさんのベースがフロアを酔わせ、ブレイクでサテン地の黒い幕を落とすアレは最高だった。ヤバい薬が血管に打ち込まれたみたいな快感だった。黒い幕には黄色い三角形が円形に配置されてて、トゲトゲした幾何学的な模様が浮かび上がり、うごめいていた。

ここから本編終盤までは、もう意識が朦朧とするくらいに「動脈」のシロップを堪能した。Deathparadeがこのセトリ終盤、古い曲に挟まれた位置にあったんだけど、かなりハマってた。

アンコールは正常、続いて不眠症をやってくれて、昏睡状態のような、穏やかで病的な心持ちになる。正常では神のカルマの時の黄色いトゲトゲが再び登場してた。

あとやってない曲なんだろ…と息を切らしていたところにSonic Disorderがきて、テンションがぐんっと上がり、お客さんからも小気味よいヤジが上がる。

この長めのイントロで弾く五十嵐さんのギターが、とてもとても80sを感じさせる音色で、というかThe Policeなのが愛しい。この音色も、この音色を好んで弾いてる五十嵐さんも好きすぎる。彼の中にある80sを感じて胸がいっぱいになる。

とか思ってたらいきなり舞台袖で五十嵐さんが何かを受け取り、まさかの水鉄砲ぶっ放し始めたのは急展開すぎた。両手に水鉄砲持って、フロア左・中央・右と、各方面に噴射。このへんから五十嵐さんが躁モードに突入して、キレにキレて覚醒してた。

水鉄砲をギターに持ち替えて、落堕の、あの眩暈がするようなリフを弾き始める。ぴょんぴょん跳ねて頭ぶんぶん振って、トランスしてんじゃないかと。でも本能のままに楽しそうで、この人に音楽があって良かった、と心から思った瞬間でもあった。

真空では暴力的な音を鳴らしてギターを掻きむしり、大樹ちゃんと音でじゃれ合って戦う。大樹ちゃんが「ドンッ!」てやると、がっちゃんは「ジャキッ!!」と間髪入れず応戦する。それが5~6回続く。ドキドキしながら見守るお客さん。この場にいられてよかったと、昔から応援してる人たちは、またシロップのライブが見られてよかった、と思っていたのではないだろうか。

その後五十嵐さんは「長距離走るの嫌い!!大嫌い!!!」と絶唱しておりました。

「最後までたどりつきました」とMCした後に、ダブルアンコールでRookie Yankeeを演奏。強くエフェクターのかかったベースの音がビリビリと空気を震わせる中、一日目が終了していった。余韻を引きずるように終演を知らせる場内アナウンスに拍手が起こっていた。

The Cheserasera 秋の晩餐 2016 VS. Tour w/LAMP IN TERREN @新代田FEVER (2016.12.2.)

ライブ記録 The Cheserasera

ケセラセラのフロントマン、宍戸さんが愛の長文依頼メールを送ったらしい、テレンとのツーマン。松本さんにはMCで「ナヨナヨした男」って言われてた宍戸さん、ほんとに「松本くん溺愛」だったの微笑ましい。

宍「僕が女だったら、松本くんのヨメ、嫁になりたい」
松「もうその『女だったら』っていう発想が怖い」
松「この後の打ち上げ、気が気じゃないですよ」

ケセラセラのライブ。ただただ、青くて。どうして自分は年上のバンドマンに青いなんていう感想を持って、涙目になって、羨ましくなってるんだろうな。

「○○(某社)のインタビューで、次目指すステージはどこですか!?とか聞かれるんだけどさ…」
「音楽が好きでやってきただけ」
「好きな音楽・嫌いな音楽ってけっこうハッキリしてて。色々ライブのやり方とか。」
「有名な、売れてるような人でもまっすぐな気持ちでやってる人もいるんだ、って」
「もっと売れて、みんなで楽しいことがしたい」

テレンのインタビューで「僕らは家で『この曲のここがいいよな!!』って言い合ってるだけでよかった」っていう節があったらしく、引き合いにしながら、こんな風にステージ上で葛藤をさらけ出してしまえる。 
売れようとセコいことしたくない。まっすぐに音楽をやって届けていきたい。そんな心の声が溢れだしているMCだった。

このまま、自分の代わりにロックしてくれ、と思って涙目になった。

現実と対峙しても魂を売り渡さず、媚びず、戦っている。純粋をまだ守り続けている、そんなフロントマンに胸が苦しかった。こういうのって、生きづらい道歩いてんなぁ、と思う一方で、とても心打たれる。それに、こういう人見てると、じっとりと後ろめたくなってくる。所々、純粋を捨ててしまった罪悪感が、意識にひたひたと貼り付くのだ。「夢」ってステージで叫んでる彼が本当に青くてまぶしくて、映画かよって。彼が叫ぶごとに、本当は現実に媚びていたくねえよ、っていう心の声は大きくなっていった。

GRAPEVINEの風待ちを、テレンの松本さんと一緒にケセラでカバーするっていう粋な計らいがあった。

演奏してるとき、皆がただの音楽好きな兄ちゃんになってて楽しそうだった。宍戸さんは、愛しの「松本くん」の横で歌ってるせいだったのもあるだろうけど。(宍「友達とかもう諦めようかなと思ってたんだけど…あのね、懐いちゃうんですよ僕」)歌い方も心なしかバインの田中さんに寄せてた。

好きな曲を演奏して、ただただ楽しそうなミュージシャン見るのってこんなに苦しくなるんだ。かっこいい!とかいうトキメキではなくて。彼らの中にある音楽への愛情を、そして音楽と共に横たわっているであろう「記憶」の存在に思いを馳せて、苦しくなる。

きっとこの人たち「大人」になれないんだ、自分とは違った方法で「大人」になっていくんだ、って思うと苦しさは募るばかりだった。ある意味ケセラの宍戸さんは欲がなくて、でも欲を見せろとプレッシャーがかかる場面もきっとあって、窮屈な時もあるんだろうな。

フロアの床にはステージの照明が反射して、ゆらゆら陰影を作り出している。バイン通ってこなかった人も、通ってきた人も等しく、演奏に耳を傾けている。「好きなことしかしたくない」「やりたいようにやりたい」本気でそう思えている彼に、少し前までの自分を重ねて余計に苦しくなりながら、爆発しそうなセンチメンタルを抱え込んで、ステージを見ていた。

「夢を追いかけるバンドマンにお金を落とし、お情けのように声援と拍手を送る構図を露骨に描いた、演出の超ヘタクソな青春パンク映画」を見終わった後みたいな、もう青春とか夢とか希望とか、そんな言葉が頭の中で渦巻いて仕方がなかった。

ステージでは吹っ切れてるような姿も、優しくておとなしいお客さんも、セトリ中盤に古い曲を持ってきてのびやかに歌い、演奏するバンドも、曲紹介やギターソロでノリきれない最前列も。なんだか全部が愛おしくて愛おしくて。

ずっと気取っていたい。いつまでこんな気持ちになれるんだろう自分は。いつまで夢という言葉を信じて語っていられるんだろう。

SYNCHRONICITY’16 –Autumn Party!!- People In The Pox × ART-SCHOOL @duo MUSIC EXCHANGE (2016.11.16.)

ライブ記録 ART-SCHOOL People in the box

ART-SCHOOL

木下「多幸感でいっぱい」「あーっ 幸せだなーっ」

喉のポリープ治療で使ってるステロイドのせいで、理樹さんが「多幸感でいっぱい」になっていた。ほんのりとドラッグ感が漂い、普段の刹那的な脆さとは違った方向性で危うげだった。とでぃがMCで言ってたけど、ステロイドは、現実とはかけ離れた幸多感・不眠・毛深くなる(謎)といった副作用があるらしい。ふわふわの状態でライブしてたってことみたい。LOST IN THE AIRエフェクター踏み替えも、よいしょって感じで若干間延びしてたのはお愛想。夜の子供たち、シカゴやってくれて歓喜

▼スカーレットの入りを間違えた戸高氏
戸「すごいイントロ似た曲があって…(動揺してる)」→コードを押さえ、一回一回うなずきながら弾き、確認する
戸「初めてだよこんなの」
木「俺もトディが間違えるの初めてだよ(驚)」
お客さん「ザワザワ(驚)」
戸「あー…ほんとすいません…」(こんなの失格だ…恥だ…感がにじみ出てる)
木「大丈夫!!トディ大丈夫!!」

▼スピーカー(アンプ?)から変な音が
単調なハウってるような音がする→ローディーさん登場、理樹さんのところへ
戸「何かあるとすぐ疑われる木下理樹
お客さん「www」
戸「ローディーさんすぐ理樹さんのとこ行きましたからね」
木「機材トラブルが…っ」

▼Peopleとの思い出
木「ピープルとはトディの方が付き合い長いよね」
戸「アートやる前から付き合いある。もうずっとロック続けてるんだなと思うと誇らしい(的なことを話してた)」
木「…ピープル良い曲多くて嫌になるね。」

▼もっと盛り上がってほしい
木「(ライブで)燃え尽きた魂を(僕たちが)返しますので、あっ…暴れっ…て(噛)」
戸「こんなんで燃え尽きる魂ですか!?」
お客さん「www」
木「(手を大きく二回叩いて大ウケ)」


People In The Box 

ライブ見るのは初めてだった。大きく残った印象は「隙が無い」ということ。波多野さんの人柄とか、演奏もそうだけど、作り込まれた脚本の舞台を見ているような完成度の高さだった。真っ白な絵の具で世界を殺菌するようにすべてを塗り替えていく。彼らがキャンバスに物語を描き、ひとつの世界を創造していく場面に立ち会い、感覚が麻痺したようだった。あと波多野さん、めっちゃ華奢。

▼「多幸感でいっぱい」についてのコメント
波「現実離れした幸福感、とは(ニヒルな笑み)」
 「そりゃ現実離れした幸福感だったら眠れなくなりますよね。」

▼今日のイベントに関して
波「まったくタイプの違う力士同士の取り組み」
 「今日の試合、けっこう良かったんじゃないですか?」
 「普通だったら、どっちかがお願いするから『ありがとうございます~(手を合わせてスリスリする動作)』ってなっちゃうけど」
※今回の対バンは、シンクロニシティというイベント企画なので、バンド同士に呼んだ・呼ばれたの関係は無い、ということを踏まえたMC

▼理樹さんとの思い出
波「理樹さんとはよく会ってるので彼に対しては新鮮味はないですけど(断言)」
~以前、波多野さんと理樹さん、sleepy.abの成山さんで飲んでた時のエピソード
波多野さん、「○○(何かバンド名?)の話をしておいて」って理樹さんに頼んで席を立つ→帰ってきたら成山さんの目が真っ赤→理樹さんが目潰ししてる→波多野さん、止めようとする→自分まで目つぶしされそうになる→横に理樹さんを投げ出して回避
波「(この件について)覚えてる?って聞くと、(理樹さんは)『覚えてない』って言うんです。でもお酒飲んでる時には『酔ってない』って言うんですよね。」

続・BUMP OF CHICKENとsyrup16gが好きなあなたに読んでほしい

BUMP OF CHICKEN syrup16g

夢って何だろう。叶った方がいいのか、叶わなくてもいいのか。

BUMP OF CHICKENの「分別奮闘記」とsyrup16gの「夢」を聞くと、どっちなんだろうと、不安定に揺れ動く。

ゴミも夢も、生活から生まれて、捨てられる。今回はそんな共通項を思い起こさせる二曲を比較しようと思う。

この二曲、まず「不燃物」をどう描くかが違う。

バンプは不燃物を夢だとして「信念」を見ている。他人によって燃やせず、灰になることもない夢。意志の宿っている夢を、燃やせないと表現している。

一方シロップは、不燃物に「揺らぎ」を見ている。煮詰まり、妥協して生み落とされ、最後に灰になって消えることもない中途半端さ。誕生してから消滅するまでの過程、言ってしまえば「燃えないゴミ」の存在自体が不完全燃焼なのだ。

シロップの歌う「燃えないゴミ」って何の比喩なんだろう。ストレートに夢の比喩なのだろうか。歌詞カードだと「燃やせないゴミすら/(改行)夢」ってなってて曖昧だ。

次に、夢を叶えるという行為について。

叶わなかった夢は叶わなかったまま残しておけばいい。夢を捨てたり忘れたりして、なかったことにしたり、恥じたりしなくても良いじゃない、と歌うバンプ

夢は不燃物なのか、粗大ゴミなのか。そして捨てるのか、夢として取っておくのか。これらは全て自分の捉え方と選択によるもの。他人に「燃えるゴミ」って紙貼られたって、自分には燃やして灰にできない夢だったりするんでしょう。

諦めたい、忘れたい夢を「ゴミ」になる寸前のところで「夢」に分別し直すドラマである。

でも、夢って本当に叶ったら、人生どうなるんだろう。その問いを突き詰めて諦観に突き当たったのがシロップだろう。

夢を叶えてしまったことで、欲を失って、生きることに期待しなくなった心情を表現するシロップ。叶わないこと、一生手が届かないと思っていたものを手に入れたときの脱力感。

このあたりは、BUMP OF CHICKENプラネタリウムにも似通った描写がある。

やめとけば良かった
当たり前だけど 本当に届いてしまった
この星は君じゃない 僕の夢
本当に届く訳無い光
でも 消えてくれない光

叶わないからこそ、ずっと追いかけていられて、生きていける。理想は理想のままで、ずっと夢を見ていられる。

叶わないと言われる夢でさえ叶ってしまったら。本当に何もかも満たされてしまったら、生きるのが平坦になるだけなのかもしれない。

夢を持ち続けること。生に貪欲であること。この二曲を比較してみると、夢を追い求めて幸せになろうとする行為自体が幸せなのだ、という考えすら浮かんでくる。人は、求めるものや望むものがあってこそ、強く生きていられるんだろうか。

こんな解釈をしてみましたが、どうでしたでしょうか。バンプもシロップも、受け取り手に残された余白の広さが魅力的だなあ、とつくづく思います。

ラフ・メイカー vs サッドマシーン ~あなたを救うのはどちらか?

BUMP OF CHICKEN ART-SCHOOL

BUMP OF CHICKENART-SCHOOLにはそれぞれ「ラフ・メイカー」、「サッドマシーン」という曲がある。ともに機械のような名前を冠した曲だが、歌詞を追っていくと、あくまでそれぞれが本当は機械なのではなく「(架空の)人物」であることがわかる。ある役割をもった人物を、特定の働きをするために製造される「機械」になぞらえた、ということだろう。今回はこの「機械」をモチーフにした二曲からBUMPとARTの描く「救い」について考える。

 BUMPのラフ・メイカーは、部屋で泣いている主人公の部屋に突然やってきた人物で、「名乗る程たいした名じゃないが 誰かがこう呼ぶ“ラフ・メイカー” アンタに笑顔を持って来た」と自己紹介する。ここで、主人公は「ラフ・メイカー? 冗談じゃない! そんなモン呼んだ覚えはない」と叫ぶのであるが、ここがポイントだと思う。主人公は、助けが欲しいと言っていない。あるいは助けてと言えない。そして「構わず消えてくれ そこに居られたら泣けないだろう」と強がる。だが、主人公のもとには「ラフ・メイカー」という助け人が、救済のチャンスが訪れているのである。

 BUMPの歌に出てくる主人公は、その孤独な苦しみを救ってくれようとする誰かが作中に登場することが多い。こういう曲は、他にもあって、例えば「太陽」とか「Title of mine」とか「ハンマーソングと痛みの塔」とか。一人で苦しみの淵にあるとき、誰かが助けてくれようとするけれども、差し出された手を「ありがとう」と握り返して素直になれない主人公たちの歌だ。

 平気なフリをしていても見抜かれて、誰かが強引にでも救いの手を差し伸べてくれる。そんな温かな救済の物語がそこにはある。助けてと口に出さずとも、大丈夫?って気にかけてくれる人が現れて、自分も勇気を出して素直になれる。BUMPの曲には、「他者の歩み寄りによる救い」が最終的に待ち受けているのだ。

 一方のART-SCHOOLのサッドマシーンだが、主人公は何を叫ぶのか。

Sad machine
You’re sad machine
俺を救って
Sad machine
You’re sad machine
精一杯の笑顔で 助けてよ

(サッドマシーン/ART-SCHOOL

 「まるで機械みたいな笑顔ね」とある女性に言われ、彼女に見放された主人公は、精一杯の笑顔で「助けて」と叫ぶ。この曲、「灰になる前に 助けて 助けてよ」の一編で終わっている。醜い弱さをさらけ出し、「助けて」と叫んで救済を求めるものの、最終的に救いは訪れないのだ。アートは、取り残される主人公を美しく殺しておく描写が巧みだし、この絶望こそがART-SCHOOLの美学だ。

 ここで登場するのがサッドマシーンであるが、ラフ・メイカーほどキャラクターめいていないし、ラフ・メイカーのようにやってきてくれるわけではない。はたまた自分から救いのアクションをすることもない。それはサッドマシーンがyouという特定の人物であるからだろう。自分の望み通りに自らを救ってくれることのない「あなた」を、思い通りに操れるはずの「機械」に例えるというのは、ある種パラドックスだ。

 "Sad machine You're sad machine"とは、救済や慈悲を求める呼びかけみたいなもので、見放されても尚、彼女にすがってしまう「僕」の悲痛さが胸に迫ってくる。

 サッドマシーンとはどのような比喩なのだろう。愛を知らない、感情がない、人間味がない。欠落によって生まれる悲しみ、またそれを憐れむ主人公の視線・信仰。そして、情けをかけ、信じたものには救いを求める。たとえ裏切りが待ち受けているとしても。見捨てられたり、裏切られたりしても、一度自分を救ったものへの信仰は簡単に捨てることはできない。そして、惨めさを抱えながらも、変わらず救いを求めてしまうのだろう。

 孤独な「僕/私」の世界が「君」によって肯定されて広がる瞬間の救いを描く歌がBUMPのラフ・メイカーだとしたら、「僕/私」の世界が「君」によって否定されて孤独に崩れ去る瞬間の救われなさを描くのがART-SCHOOLのサッドマシーンだろう。

 どちらの曲で、あなたは救われるだろうか?

サカナクションのNF行ったことない魚民がNFについて思うこと

サカナクション

ぐだぐだサカナクションのNFについて書きます。


この前のNFで写真撮影やサインについて、色々とあったらしいというのをTwitter上で目にして、以降ファンの人たちがあれこれ思い悩んでツイートしてるのを見た。

この騒動見て、高校の時の先生が「授業中にペットボトルを出してるのを注意するなんて本当はしたくない。ペットボトルが出てる出てないなんて、そんな些細なことを授業中に問題にするのが残念。」みたいなこと言ってたの思い出した。

要は、教員と学生が同じ方向を向いて授業に臨めているかが重要で、同じ方向を向けて熱心に勉学に取り組めているなら、ペットボトルだろうがお菓子だろうが机に置いてあっても関係ない、みたいなことが言いたかったんだと思う。

NFで、サカナクションと一部のファンは同じ方向を向けていなかったんだろうか。

自分自身、NF一回も行ったことないから今回の件をよく理解できてるとは言えないけど、「写真撮影禁止」とかいうことをクラブイベント中に問題にするのって、若干野暮なのでは。ただ問題なのは写真撮影自体ではないはず。写真撮影禁止は一時的な荒治療みたいなものでしょう。他に改善すべき点があるんだと思う。

例えば、音楽を楽しむっていう姿勢に向かえない、っていう音楽リテラシー育成途中のファンたちが過剰な写真撮影に走っちゃったんじゃない?じゃあ、どうやって探す遊びを覚えてもらおうか?とか。サカナクションのファンって、その辺の身体能力が元々高そうだから、イケるかと思ってたけど違うのかなー。決して「アイドルとして見てる」っていう結論に飛躍したりせず、まだ「音楽の遊び方が分かんない」ってだけだと信じたい。

サカナクションだって写真撮影禁止ねとか言いたくて言ってるわけじゃないし、何でミュージシャンなのにこんなこと言わないといけないの、みたいな感触はゼロではないはず。高校の先生の理論でいけば、「音楽を楽しむクラブイベント中に写真撮影してるのを注意するなんて本当はしたくない。そんな些細なことを音楽を楽しむイベントで問題にするのが残念。」ってことでしょう。

サカナクションは自称普通の音楽好きの兄ちゃん姉ちゃんだから、彼らが音楽を楽しんで音楽以外のカルチャーに手を伸ばしてるように、魚民さんたちも、シンプルに音楽と音楽にまつわるカルチャーを面白いと思ってくれたらいいんだろうけど。

でも、いつもはでっかいステージでバンドやってる人たちを目の前にしたら、舞い上がるのも当たり前だ。それは分かる。だってもう次にチャンスがあるかなんてわかんないじゃん。チケット取れんもん。

NFは総じて「学びの場」として機能すればいいと思う。音楽以外のカルチャーを見つける、新しい音楽に出会う、音楽の遊び方を覚える。だから、これから回を重ねるごとに魚民さんが全方位的に学んでいって、もっともっとレベルの高い遊び場であり、教室になればいいなと期待してます。

ART-SCHOOLの「ecole」と映画「ecole」が紡ぐ少女の物語について

ART-SCHOOL

この前の木下理樹生誕祭行ってから、ART-SCHOOL好きに拍車がかかり、もっと掘り下げたいと思って悶々としていた。そんな時、あるTwitterの投稿で「オススメの少女映画」なるものがあり、見てみるとその中の一作品に「ecole」の文字が。

まさかAnesthesiaの一曲目の「ecole」って、少女映画が元ネタなのか....!?ART-SCHOOLって曲名を映画の題から借りてるのもあるらしいし、ecoleもそうなのかもしれない。そこで、新たな扉を開いてしまうのではとドキドキしながら、ecoleを、鑑賞いたしました。

まずジャケットが、深い緑色の森を背景に、白いプリーツスカートを履いた女の子の後ろ姿(上半身は見切れてる)っていう、この狙ってる感からしてヤバめ。
 
見終わって、これはヤベエエエエって頭抱えてしまった。ART-SCHOOLの美しいフィクションの世界が好きな方は、もう見ていただきたい。そしてフェチズムと背徳感で狂おしくなっていただきたい。
 
じわじわと甘美で美しい純真無垢な世界に一度殺されてしまう。そして明日も生きようと思う。再生する。まさにART-SCHOOLの言葉を借りると「ロリータキルズミー」でした。
 
旅立つ寸前の、柔らかで真っ白な真綿のような少女の純真さが、静かな森の中の学校(=ecole)という舞台で描かれている。「少女の成長」が、邪気を排して美しく映像に仕上がってる。故に、時にあざとい。出てくる女の子たちが、少しずつ年齢が違ってるところにドキドキする。こうやって成長して、大人になっていくんだと。秘密の花園ってここかもしれない...と本気で思った。
 
ART-SCHOOLの「ecole」は、映画「ecole」の続きみたいだ。「導かれて僕らは今 知りたくもない答えをしる」「痩せこけた顔の天使たち 粉々にされた純真さ」といったフレーズは、かつて美しくあったものが、くたびれて汚れていくことへの嘆きを想像させる。
 
映画の少女たちが成長し、女性という記号を背負わされて生きていく未来に、何が待ち受けているのか。「僕」に出会った少女たちは、どんな未来を歩むのか。その未来を歌った曲が「ecole」のように聞こえる。
 
「ecoleでも僕ら ecole何処に向かえばいいんだ」という結末は悲劇的だ。だが一方で、二人で彷徨うことは陶酔でもある。 純真無垢であった少女たちは、新たな喜びや幸せを手に、「僕」との二人だけの世界へ飛び立っていくのだ。