anonymoUS

found by U

「透明」という歌詞から見るBUMP OF CHICKEN

鉄棒が得意だったけど よく慣れた技を舐めてかかり 後ろ向きに頭から落ちた 飛行船が見えた昼休み

ずっと平気なふりに頼って 嘘か本音か解らなくて もっと上手に生きていましたか 飛行船が見えた頃の事

(透明飛行船 by BUMP OF CHICKEN)

BUMP OF CHICKENは「透明」と「飛行船」という言葉を組み合わせて、何を描いているのか。

透明とは「そこに存在するけど見えない」という状態。飛行船とは「幼い頃は感動するもの」の例え、ではないかと思う。つまり透明飛行船の意味するものとは「知覚できなくなった童心」ではないだろうか。

大人になるにつれて感動したり心がグッとくることは減ってゆく。そして解決できない煩わしいことや辛いことがたくさん降りかかってくる。そんな時、昔の自分の方が「もっと上手に生きていた」 と思える瞬間が訪れる。ここで主人公が立ち返るのは飛行船が見えた頃の自分だ。言い換えれば、飛行船が「透明ではなかった」頃の自分である。そして立ち止まってしまう。

『飛行船が見えた自分が持っていたものは?大きくなるにつれて失くしたものは?』

主人公は得意が苦手になったとき取り繕って笑った。その一方で、帰り道一人こっそり泣いた。宮田公園で一人こっそり泣くという行為は、平気なふりに頼らない、強がらないという生き方の比喩であり、自分の気持ちに嘘をつかない、真っ直ぐな生き方のことだろう。

この悲しみをさらけ出す、弱い自分になる、自分の気持ちに正直になる、という行為こそが失われてしまったものの一つだ。わりと重要なスキルを身につけてしまったが故に縛られ、苦しくなるという、処世への不信・不適合が窺える。上手に生きるために身につけたはずの、多岐に渉り効果示すはずの方法が自分には万能ではなかったと気づいてしまったのだから。

透明飛行船とは、過去の感覚を取り戻せば見えるようになるかもしれないものであり、また以前と同じように心がグッとくる感覚を思い出させてくれる存在である。言うなれば「夕焼け空を綺麗だと思う感覚」を思い出させてくれる存在である。

と同時に、飛行船が見えた頃の自分にまで記憶を巻き戻し、回想を通して昔の自分と対峙するきっかけを与える存在である。そして、生きていく上で取りこぼしてきた様々なものを思い出させるものである。透明飛行船それ自体がその一つであるように。

近年のBUMP OF CHICKENの楽曲に「透明」という歌詞が印象的な別の曲がある。ご察しの通り、rayだ。

君といた時は見えた 今は見えなくなった 透明な彗星をぼんやりと でもそれだけ探している

(ray by BUMP OF CHICKEN)

彗星も飛行船も、見上げた空に見つけたらハッとする。だけど、その感動は大人になるにつれて薄れて、いずれ彗星や飛行船の存在にさえ気付かなくなる。そして、柔らかい心は大人になるにつれてボロボロになり、生きることが下手になる。モチーフは違えど、両者に流れる感覚は過去・現在・未来を往来するノスタルジックなものだ。

大人になるということへの喪失感や不適合感。これらに向けてrayが、BUMP OF CHICKENが、藤原基央が導き出した言葉は「あの透明な彗星は 透明だからなくならない」だった。透明であるからこそ、そこに「在る」と思い出せた時は、いつでも色や形を与えられるのだ。 そして見えなかった飛行船は見えるようになるかもしれないし、探していた彗星は見つかるかもしれない。

彗星や飛行船は、誰かに見つけられなくなっても存在し続ける。「透明」である理由は、大きくなったあなたに、また見つけてもらうためだろう。

あなたも名門レーベルCaptured Tracksにハマるかもしれない

いつぞやのラジオでサカナクションの一郎さんが「新しい音楽、好きな音楽をレーベルで探す」みたいな話をしていて、長らくどういうことやら?と思っていたのだけど、最近、その意味が分かった。

Captured Tracksというアメリカのレーベルに、レーベルごと、見事にハマった。
きっかけは、Syrup16gの徘徊ツアーのSE。開演前に、ここに所属するミュージシャンの曲が流れて、瞬時に惚れ込んでしまったこと。それがこちら。

youtu.be

レーベルごと音楽にハマったことのなかった自分にとって「レーベルで音楽を探す」というのは、かなりアドレナリン出る。何せ、この鉱脈を掘って出てくるものは全部キラキラ輝く宝石かもよ?みたいな感じですから。
Captured Tracksは、the cure, the smithsといった80sUKロック、そして彼らの流れを汲んでいるSyrup16gART-SCHOOLTHE NOVEMBERS、あとはMewやThe fin.なんかが好きな方であればグッときちゃうんじゃないかな。
というかThe fin.は、ここに所属していても違和感なさそう。彼らが話題になったとき「海外のインディーシーンとのリンク」とかいう評価を結構目にしたんだけど、ああこういうことか、と今更納得。

youtu.be

レーベルで音楽を探すことのメリットは、当然ながら「似たような音楽性のミュージシャンに一度にたくさん出会える」ということではないかな。だから「こういう音楽が好き!」っていう嗜好性がある人にとっては、効率よく音楽を漁ることができて、かつ好みのミュージシャンに出会える確率もグッと高くなる。

こちらにいくつかCaptured Tracks所属のミュージシャンの楽曲を貼っておきますので、ぜひぜひ。

youtu.be

youtu.be

youtu.be

来年も皆さんが素敵な音楽に出会えますように。

相対性理論presents 『天声ジングル - ∞面体』ライブ@山口情報芸術センター(YCAM)

相対性理論のことしか考えない一日はかくも素晴らしいのかと。


◎山口遠征レポ目次◎
▼天声ジングル 映像音響インスタレーション
▼タンパク質みたいに
▼わたしは人類
▼ライブ


相対性理論の「天声ジングル」というアルバムは、武道館を「ただの八角形のハコ」として機能させ、バンドは、キャリアの集大成やメモリアル公演、など武道館の記号性とは無縁のパフォーマンスを繰り広げ、夏の大八角形を完全制覇していたのだけど(客席全員着席だったのはさすが)、まだ拡張する余地を残していたとは!!

相対性理論というユニットの表現に可能性と未来を感じさせる企画だった。これからの相対性理論がとても楽しみだし、音楽を作ってライブをする以外の活動に果敢に挑んでいる姿は、ファンの信頼と期待を満足させるに十分だと思う。ポップユニットとして自らを位置づけながら、一見すると難解な、でも実はエンターテイメントとして楽しめるものを提供してくれる相対性理論が、大好きで仕方ない。

サカナクションも、音楽とファッション、クラブカルチャーとの融合を図ってNFなど独自路線を走り始めているけど、相対性理論やくしまるえつこもまた「マジョリティの中のマイノリティ」として暗躍していると感じている。

▼天声ジングル 映像音響インスタレーション
スタジオに足を踏み入れると、真ん中に人が乗れる八角形の白い台(スクリーン)が置いてあって、その両サイドには中央が凹んで、くの字型になったスクリーンが設置されていた。この三つのスクリーンに、楽曲に合わせて映像が投射されていた。映像は、武道館の時と同じかな?宇宙の誕生を思い起こさせるような、天体&魔法陣っぽい感じの笑。

スタジオ入ったとき、7-8人のファンの人たちが、それぞれ絶妙な距離を置いて台の角に立ち、誰も話さず、じっと下を見つめている光景は完全に何かを召喚する儀式だった。お客さんたちは、一人で来てる人が多くて(男女問わず)、ひたすら飽きずに自分の世界に入って、ぼんやり左右のスクリーンを眺めたり、足元に映る映像に見入って、あまり動かない。しゃべらない。そして滞在時間が長い。じっくり自分の内面世界と向き合っているようでした。

複数のスピーカーが円形に設置されていて、天井にもあったようだから、スタジオ全体がスピーカーに囲まれて、ドームみたいな状態だったことになる。八角形の白い台に乗っていると、低音が足元に伝わってきてブルブル振動した。

▼タンパク質みたいに
夜、閉館した図書館の館内をプロジェクションマッピングするという、このフェチを直球に突いてくるようなインスタレーション。ここ、ライブ始まる前は、市民の方々が図書館として利用してる場所で、だから本棚とか、もうそのまんまな訳です。ライブ後、お客さんの数が多くて、三分ずつ区切っての展示になり、ちょっと早足に。

異空間だった。吹き抜け構造になっているので、渡り廊下から図書館内を見下ろすような形で鑑賞。館内にはテキストと、やくしまるさんの影が浮かび上がっていた。やくしまるさんの朗読に合わせて、投影されている文字がバラバラとウェーブのように踊った。手すりのところには何ヶ所かiPadが置いてあって、投影されているテキストを、クロスワードパズルの図面のように見ることができた。横にいたお兄ちゃんが、iPadを変にいじってしまったらしく設定モードになって、友達らしき人と一緒に「やべえやべえ」「すいませーん画面変わっちゃったんですけど」ってなってた。館内はやくしまるさんの声が染み渡って、夜の図書館が近未来的な空間と化していた。

▼わたしは人類
案内看板の通りに進むと、実験室のようなところにたどり着き、「展示見るには、このクリーム色の鉄扉をくぐらなければならないのか」と衝撃が走った。扉の前には、YCAMのスタッフさんが控えていて、「ファンの方でいらっしゃるということで、お詳しいと思いますけど」と、謙遜されてしまいつつ、丁寧に説明してくださった。

「シャーレの絵も、えつこさんがお描きになったそうですよ」とのこと。えつこさんとか呼び慣れてなくて、何だかクスリとしてしまい、くすぐったい気持ちに。

重い扉を開けると、漏れ聞こえていた「わたしは人類」の音がグワン、と流れ出てきた。部屋の入り口には厚手のビニールが二枚かかっている。中は暗くて、人が三人入ると一杯になってしまうくらいの小ささ。入って右手に30×30くらいのブラウン管テレビが置いてあって、黒いマントを着たアー写のやくしまるさんが映ってた。

扉のない縦長の冷蔵庫みたいなところにバイオアートが設置されていて、その前には「わたしは人類 培養中」と書かれた規制テープが張られていた。このシャーレで培養されている微生物に楽曲が埋め込まれている、そこから今聞いてる曲が流れているって、つまり、つまりどういう状況なのか全く想像つかなかったけど、「なんか…なんかよくわかんないけどスゲー!!」って友達と意思疎通できたので、満足して実験室を後にしました。

▼ライブ
13時から整列開始、14時から整理券配布開始というスケジュールに合わせて、ホワイエにはガチ勢のみなさんがぞろぞろと、だけど静かに集まっていた。整番は早いもの順だったので、運ではなく、多少のタイミングと辛抱と努力で良番がゲットできるというシステムだった。

開場が15分ほど遅れて入場。SEはクラッシックのピアノ演奏がずっとかかっていた。YCAMのスタジオAは、客席設置時だとキャパ450人らしい。作りは渋谷のWWWXに近いかな?という印象を受けた。ただ、天井が見慣れた中規模ライブハウスよりもすごく高い気がした。後ろのお兄さんたちが「開演前って一人で来てるときヒマだよなー」「なー。もう周りの会話を盗み聞ぎするくらいしか楽しみがないwww」みたいな会話をしていて、うわーそれ分かりすぎるぞ…と心の中で握手を求め、共感しながら、いよいよ辛くなってくる足の痛みをごまかしていた。

なにせ開演が30分ほど押していたのだ。

会場の集中力と緊張感が切れてきたころ、音もなくメンバーが登場。一瞬で空気が変わる。歓声も起こらない。相対性理論のライブで、やくしまるさんが登場し、歌い出すまでの「間」はかなり特別な時間だ。この場にいる全員の関心が舞台に向く。間もなく彼女の声が会場を支配するのを予感して、誰もが身構える。皆の視線を一手に集めた彼女は、再び高まった緊張感を無効化させるような、それでいて新たな磁力を発生させるような、不思議な声で歌い出した。そう、あの「声」で。

序盤は天声ジングルからFLASHBACK、おやすみ地球、天地創造SOSと続いた。FLASHBACKのラストではやくしまるさんがCLAP、天地創造SOSの間奏では実際に電話(本物の黒電話?が左手側に置いてあった)をかける仕草も。フロアとバンドとの間は薄い紗幕で隔てられ、インスタレーションでも流れていたような映像や、波型のレーザーが投射される。この紗幕、開演前にかかっていたことに気づかなかったほど薄い。それでも、まだ相対性理論は「向こう側」にいた。照明も明るくメンバーを照らしていなかった。

ここで演奏が一旦途切れた。MCタイムだ、とそわそわする。彼女が紗幕の向こうでおもむろに口を開く。よく見えなかったけど、きっとそうだ。

相対性理論プレゼンツ天声ジングル∞面体(ポリヘドロン)、開幕」

彼女の言葉を合図にするように、かかっていた紗幕が上がる。照明が明るくなり、姿が、表情がくっきりと見える。ああ、相対性理論って本当に存在して――と、息をつく間もなく、とあるAroundの弾けるようなリフに包まれる。顔が熱くなる。
これじゃまるで謁見じゃないか、なんだよう、と思いながらボロボロと泣いてしまった。

何よりやくしまるさんの存在を声だけでなく、姿で、表情で、佇まいで感じ取れたことは嬉しくて、感動的だった。相対性理論のライブにはそれなりに行っているけれど、全くメンバーは語らないし、ひたすらプログレみたいなセッションした時もあったし(褒めてる)、豪雨の中ずぶ濡れでSHBUYA-AXまでライブ見に行ったら一時間半で終わって、特殊公演は甘くなかったと悟った時もあったし(褒めてる)、まさかこんな至近距離で、彼らの存在を感じ取りながらライブ見れるなんて思ってもみなくて。実体はないけど相対性理論の存在を信じて救われていた中学時代からは想像もつかない事態に、涙はとどまるところを知らず流れてゆく。

やくしまるさんは武道館の時と同じヘアスタイルで、5分丈の黒いループニット風な衣装を着ていた。袖は透け感があって、背中側には白っぽいボンボンが複数個付いてぶら下がってた。その上にも何か着ていたのか、前掛けをパタパタするような動作で服と戯れていた。スカートは光沢のある黒っぽい7分丈で、プリーツが斜めにカットされていたように見えた。靴はマーチンみたいな感じで、靴下と合わせて履いていた。こんなに細部まで衣装が見えて本当に信じられなかった。

ステージセットは比較的シンプルだったけれど、イトケンさんと山口さんのセットはそれぞれ透明板で囲まれて、フロントに立つ三人とは隔離され、個室が生み出されていた(何故)。永井さんと吉田さんはシャツ、ジャケットに細身のパンツという清潔感溢れるスタイルで、時々お互いを見合いながら、時々表情を歪めて苦しそうにして笑、演奏を繰り広げる。

中盤にはシンクロニシティーンから小学館を披露。上海anでは白いリコーダーを演奏し、サビではかすかに左足で裏拍のリズムをとるやくしまるさん。後半は寒色のレーザーがステージの三か所くらいから上方向に放射され、スタイリッシュでインテリな雰囲気さえ感じる。ベルリン天使では、間奏の乾いたタンタンタン…という音をやくしまるさんがサンプラー(?)を叩いて生で演奏しているようだった。

と、次の曲に行く前に「友達連れてくるからちょっと待っちょって」とMCらしいMCをし、フロアも珍しくザワザワ、ヒューっとヤジが上がり、やくしまるさんがステージを去る。戻ってきた彼女の手にはケルベロスのパペットが装着されていた。ケルベロス、某狼バンドみたいに赤い舌がペロっと出ており、なかなか作り込まれている。パペットを付けて歌うやくしまるさんは、ディムタクトを聖剣のように正面に抱える姿とは雰囲気が違って、このときは、少し謎めいたベールが揺らいで、隣にいてもおかしくないかも、と思った。歌い終わると、ペコっとケルベロスもお辞儀をしていた。

そして、パペットを外して後ろの一人掛けソファに置く動作が、優しい。

ケルベロスのパフォーマンスですっかり温まったお客さんは、次のミス・パラレルワールドでゆらゆらと揺れて、ようやく緊張感より楽しさが勝って出来上がりつつある。弁天様はスピリチュアでは、ラベンダー色のレーザーが真っすぐに伸びて、凛としたハープのような音色と、穏やかな歌声が会場を癒してゆく。満たされた気分のまま、本編は「バイバイ」というMCで締めくくられた。

メンバーがステージを去った後、はっと我に返ったかのようにざわめき出すお客さん。拍手に応えて再登場した相対性理論がアンコール一曲目に披露したのは、ロンリープラネット。紗幕を下ろし、照明も暗めだ。ステージ後方のスクリーンにはMVが投影されて、本物のやくしまるえつこと、映像の中のやくしまるえつこがステージに同居する。そして最後に演奏されたのはわたしは人類だった。紗幕が上がり、やくしまるさんがPCを操作してトラックが流れ出す。円盤のような形のサンプラーをいじりながら、自身の声を素材に音を生み出してゆく。間奏では、音の洪水のようなセッションが繰り広げられ、混沌とした世界が創り出される。そこから徐々に、ドラムとパーカスがグルーヴを作り出し、グッとセッションのラストスパートに持っていったのは胸が熱くなった。

「おやすみ」と一言フロアに投げかけてやくしまるさんはステージを去り、永井さんが深々とおじぎして、∞面体ライブは終演した。

誰もが終演と同時に襲い来る足の痛みに耐え、そして物販を何となく眺めながら名残惜しい気持ちになり、会場の外の冬の寒い空気に触れ、ああ相対性理論って本当にいたんだな、と幻を見たかのような、ふわふわとした気分になっていたことだろう。

 

Syrup16g tour 2016 HAIKAI @Zepp Tokyo(2016.12.15.)

Syrup16gを聞いている人たちは、皆狂うようにして聞いているだろうし、血だらけになって命削りながら聞いてると思う。何かと戦いながら、負けを認めず、反抗し、腐りかけても逃げない、だけど本当はとても繊細で、誰よりもボロボロになって人知れず傷ついている。世の中の不条理や孤独を一手に引き受けて、人一倍優しくて。シロップが好きな人たちって、自分の幻想かもしれないけど、そんな人ばかりなんじゃないかと思う。

 水鉄砲を持ちながら、腕を掲げ上げるシロップのファンの人たちは、自分を守るために武器を手に戦っているように見えた。水鉄砲という遊び道具は一見無邪気だけれど、疑似的に何かを殺める道具、として見ると、形骸化した狂気が宿っているようで怖い。

 透明な日の、灰色の霧がかかったような演出では黄色の水鉄砲が灰色に透けて、二色の不穏なコントラストを作り出し、余計に狂気じみていた。「狂気」っていう感覚は、躁状態の心理であったり、アルコールだったり、病的なものであったり、シロップの楽曲の根底に流れているものだと感じる。水鉄砲って、「普通に生きていて狂いそうになる人間」の隠喩みたいだ。

 誰よりも傷ついて、誰よりも戦っている人に、syrup16gの音楽はよく響く。

 だから、現実と戦うことを辞めて、全てを飲み込んでしまったらsyrup16gの歌は自分にはきっと届かなくなる。不条理や騙し合いを見過ごし、受け入れ、狡猾な立ち回りにも何も感じなくなり無痛状態に陥ったとき、シロップの歌はきっと響かなくなる。

 そして自分はきっと生存競争から降りる。そのときは、死にたいだなんて思えないほど衰弱している気がする。自分を傷つけたものに対して無関心になったとき、きっと「死にたい」という気持ちはどこかに消えて、ただただ自分を消滅させることにしか関心がなくなるのだろう。

 そうなる前に自分はシロップの音楽を思い出したい、と心から願う。自分を傷つけたものと対峙することで自分を守るために、ずっとずっとsyrup16gを聞きたい。本当に自分を消し去ってしまうことがないように、不条理や孤独や裏切りと向き合うのだ。

 今回、徘徊ツアーの東京2daysに行けたことは幸せそのものだ。失くしたもの、捨てたもの、忘れたもの、すり減ったもの。それらを見つけ、拾い上げ、思い出し、また歩き出せそうだと思った瞬間が確かにあった。必要なのは、喪失しかけた戦意を取り戻すことだった。それと、欠落していた楽しい・愉しいという感情を思い出すことだった。

 Syrup16gは自分にとって、傷ついたことを教えてくれる「心の痛覚」だ。傷だらけな心のわめきを代弁し、あるいはボロボロで上手く叫べない自分の代わりに大声で叫んでくれる存在だ。そしてシロップの音楽を聞きながら、全部終わりにしたい、もう消えたいと、時に心が叫び出すのは、まだ生きられるという逆説的な証拠のはずだ。

 二日目のアンコールの生活。「君に言いたい事はあるかい?そしてその根拠とは何だい?」と、語尾を少し変えて歌っていた五十嵐隆に自分は本当に救われてしまったと思う。syrup16gに、不意に、そして少し優しく歩み寄られたような気分になって、ハッとしたのだ。

 『生きていたい、だから自分を守りたい、そのためにsyrup16gが必要だ。』

 真っ当ではないことに当たり前のように反抗し、違和感を覚え、傷つき、「嫌だ」と感じる。こんな負の感情でさえも純真から生まれるというのだから、本当に難しい。

 そう思う一方で、この純真がなかったら何か自分の大切なものが失われ、枯れて、アンテナが朽ちて、感じられるものが激減する気がする。そして、痛みや傷に無自覚になり、刻々と死んでいく気がする。だから結局、純真を、自分を守りたいと思ってしまう。自分を守ることは、違和感に反抗することとほぼ同義になりえるし、違和感を察知する澄んだ感覚を持ち続けることでもある。

 こうしていつも、syrup16gを介して、死ではなく「生」に寝返るのだ。

 青灰色の煙の中で、Sonic Disorderを演奏するsyrup16gは、自分の中のイメージそのものだった。初めてこの曲を聞いたとき、ぼんやりと煙の向こう側にいるような誰かを思い浮かべていた気がする。あのときは、きっとこの人たちのライブには一生行けないんだろうな、なんて思っていた。記憶が過去へ過去へと引き戻され、昔と今が交錯して意識が遠のき、頭の中まで霧がかかったかのように視界が眩んで―― 圧倒的にその場で一人になっていた。

 Syrup16gは、あなたにとってどんな存在なのだろうか。

Syrup16g tour 2016 HAIKAI @ Zepp Tokyo 開演前SE まとめ

Syrup16gのファンって、本当に音楽好きなんだな、と感じた。それは、開演前SEを注意して聞いているお客さんの姿を多く目にしたからだ。

ShazamとかSoundHoundのアプリを使って、スマホに音楽聞き取らせてる人が本当にたくさんいた。後ろの方から見てても、スマホ持った腕を掲げ上げて、聞き取らせてる姿が目に入る。自分は月に1-2回はロックバンドのライブに行くのだけど、ここまでSEに注意払ってるファンがいるバンド、あんまり見ない。

今回は覚えてる限り&調べられた限り、東京公演で流れてたSEを7曲まとめてみました。

1)The Beatles – Blackbird

開場15分後くらいに流れてた。ポール・マッカートニーが来日公演した時にも披露してた一曲。前にいた男性ファンの方が、反応してスマホに聞き取らせてた。

www.youtube.com

2)Green Day – Boulevard Of Broken Dreams

後ろにいた女性と男性のお客さんが、この曲がかかった瞬間に反応してた。
女性「キタァア!! これ私がGreen Dayで一番好きな曲!!」
男性「こういう哀愁漂う感じのが好きなの?(冷静)」

www.youtube.com

3)Craft Spells – After The Moment

一瞬で好きになった曲。ドリーム・ポップと言うのでしょうか。浮遊感のあるキラキラした音がクセになる。The fin.とか好きな人は好きだと思う。
Captured Tracksというアメリカのレーベルに所属してるらしいんだけど、シューゲイズ、ドリーム・ポップ、インディー好きにはたまらんミュージシャンがたくさん。

www.youtube.com

4)The Cure – Burn

前にいた男の子二人組が「キュアっぽくない?」「全然詳しくないけどな」などと会話してるのを全力で聞き耳立てて聞いてました。その後アプリでスマホに聞き取らせ、「あ、キュアだ」「キュアだ」「(お互いうなずき合う)」みたいなやり取りしてて、超和んだ。シロップのライブ会場で聞くキュアは、良い。

www.youtube.com

5)Friendly Fires – Skeleton Boy

あと15分くらいで始まる…!!と、ドキドキし始めた頃に流れてきた、聞きやすくノリやすい一曲。思わず体を揺らしてしまう、ピコピコサウンドに高まった。てかこのMV。笑

www.youtube.com

6)Fiona Apple – Across The Universe

これ誰がカバーしてるんだろ?と思ったらFiona Appleだった。原曲はThe BeatlesFiona AppleっていうとART-SCHOOLfiona apple girlが出てくるの、シロップファンなら分かってもらえるんじゃないかな。。。

www.youtube.com

7)Ben Folds Five - Brick

はやる心をなだめるようなピアノの音色に、切なくて美しい歌声が響く。この曲が流れたとき、会場の緊張感や熱気が少し優しさを帯びたものに変わったようだった。

www.youtube.com 

会場へ移動中のこと、開演前のこと、ライブのこと、家路のこと...徘徊した夜の色々なことを思い出しながら、ぜひ聞いてください。

Syrup16g tour 2016 HAIKAI @Zepp Tokyo(2016.12.14.)

ライブ本編も終盤、coup d’Etatの前、ミント色の涼しい照明の中、五十嵐さんはギターを鳴らしながら、ほぼ全く聞き取れない、叫びに近いMCをしていた。辛うじて「音楽だけは楽しい」「もうちょっと一緒に遊んでいってください」そんな言葉をギターの間から拾い上げた。

音楽というフィルターを一枚挟まなければ自由に人と対することができない、彼らしい行為だと思った。別に聞いてほしい、分かってほしい、そういった思いの込められた言葉ではなかったのだろう。聞こえた人が拾ってくれれば、その人の中で理解されれば、こちらからは何も「伝えやすく」配慮する、言語コミュニケーション化する必要はない、と。

確かに、今日のライブに、お客さんとsyrup16gの間に整えた言葉は過剰だった。だって今日は音楽を、syrup16gの音楽を聴きに来ているのだから。今日は「そういうひと」同士の集まりなのだから。

大樹ちゃん「来てくれてありがたいね、っていう話を、楽屋でがっちゃんとキタダさんとした訳じゃないですけど、(2人とも)そう思ってると思います」

Father’s Day~Missing~Murder you know~タクシードライバー・ブラインドネスは今ツアーのセトリの見せ場だった。

Father’s Dayの、煙をこれでもかと焚いて水色の照明と合わせ、ストロボを不定期に点滅させる幻想的な演出は、穏やかな死を連想させ、走馬燈のようだった。Missingでは、ピンクと緑の照明をぶつけて不穏な雰囲気を醸し、ブレイクのところでは真っ赤な照明でキメる。

Murder you knowでは一転、温かみのある黄色の照明で舞台を包み、円錐形に白い光を放つ。そして大樹ちゃんの親し気なMCを挟んで、タクシードライバー・ブラインドネスではイントロと同時に、一気にステージが真っ赤な照明に染まる。

この流れが。めっちゃくちゃかっこよかった。曲目としても、静・動・美がそれぞれに詰まっててシロップの良さが多面的に見られる並びだと思うし、新しく生まれた曲たちのバリエーションの豊かさを改めて感じた。何よりMCの後のタクシードライバー・ブラインドネスはずるい!笑。五十嵐さんも、ギターをストロークさせながら、内心では「してやったりー」とニヤっとしてたんじゃないかと勘繰ってしまう。

ライブ中盤、Share the lightで大樹ちゃんの鬼スイッチが入って、立ち上がり、叫び、シンバルを殴り、めっためたにたいこを叩きまくり、こちらも高まらずにはいられない\(^o^)/

My Love’s Soldでは渦巻く感情がほとばしり、爆発し、熱量を十分に上げてからの神のカルマ。マキさんのベースがフロアを酔わせ、ブレイクでサテン地の黒い幕を落とすアレは最高だった。ヤバい薬が血管に打ち込まれたみたいな快感だった。黒い幕には黄色い三角形が円形に配置されてて、トゲトゲした幾何学的な模様が浮かび上がり、うごめいていた。

ここから本編終盤までは、もう意識が朦朧とするくらいに「動脈」のシロップを堪能した。Deathparadeがこのセトリ終盤、古い曲に挟まれた位置にあったんだけど、かなりハマってた。

アンコールは正常、続いて不眠症をやってくれて、昏睡状態のような、穏やかで病的な心持ちになる。正常では神のカルマの時の黄色いトゲトゲが再び登場してた。

あとやってない曲なんだろ…と息を切らしていたところにSonic Disorderがきて、テンションがぐんっと上がり、お客さんからも小気味よいヤジが上がる。

この長めのイントロで弾く五十嵐さんのギターが、とてもとても80sを感じさせる音色で、というかThe Policeなのが愛しい。この音色も、この音色を好んで弾いてる五十嵐さんも好きすぎる。彼の中にある80sを感じて胸がいっぱいになる。

とか思ってたらいきなり舞台袖で五十嵐さんが何かを受け取り、まさかの水鉄砲ぶっ放し始めたのは急展開すぎた。両手に水鉄砲持って、フロア左・中央・右と、各方面に噴射。このへんから五十嵐さんが躁モードに突入して、キレにキレて覚醒してた。

水鉄砲をギターに持ち替えて、落堕の、あの眩暈がするようなリフを弾き始める。ぴょんぴょん跳ねて頭ぶんぶん振って、トランスしてんじゃないかと。でも本能のままに楽しそうで、この人に音楽があって良かった、と心から思った瞬間でもあった。

真空では暴力的な音を鳴らしてギターを掻きむしり、大樹ちゃんと音でじゃれ合って戦う。大樹ちゃんが「ドンッ!」てやると、がっちゃんは「ジャキッ!!」と間髪入れず応戦する。それが5~6回続く。ドキドキしながら見守るお客さん。この場にいられてよかったと、昔から応援してる人たちは、またシロップのライブが見られてよかった、と思っていたのではないだろうか。

その後五十嵐さんは「長距離走るの嫌い!!大嫌い!!!」と絶唱しておりました。

「最後までたどりつきました」とMCした後に、ダブルアンコールでRookie Yankeeを演奏。強くエフェクターのかかったベースの音がビリビリと空気を震わせる中、一日目が終了していった。余韻を引きずるように終演を知らせる場内アナウンスに拍手が起こっていた。

The Cheserasera 秋の晩餐 2016 VS. Tour w/LAMP IN TERREN @新代田FEVER (2016.12.2.)

ケセラセラのフロントマン、宍戸さんが愛の長文依頼メールを送ったらしい、テレンとのツーマン。松本さんにはMCで「ナヨナヨした男」って言われてた宍戸さん、ほんとに「松本くん溺愛」だったの微笑ましい。

宍「僕が女だったら、松本くんのヨメ、嫁になりたい」
松「もうその『女だったら』っていう発想が怖い」
松「この後の打ち上げ、気が気じゃないですよ」

ケセラセラのライブ。ただただ、青くて。どうして自分は年上のバンドマンに青いなんていう感想を持って、涙目になって、羨ましくなってるんだろうな。

「○○(某社)のインタビューで、次目指すステージはどこですか!?とか聞かれるんだけどさ…」
「音楽が好きでやってきただけ」
「好きな音楽・嫌いな音楽ってけっこうハッキリしてて。色々ライブのやり方とか。」
「有名な、売れてるような人でもまっすぐな気持ちでやってる人もいるんだ、って」
「もっと売れて、みんなで楽しいことがしたい」

テレンのインタビューで「僕らは家で『この曲のここがいいよな!!』って言い合ってるだけでよかった」っていう節があったらしく、引き合いにしながら、こんな風にステージ上で葛藤をさらけ出してしまえる。 
売れようとセコいことしたくない。まっすぐに音楽をやって届けていきたい。そんな心の声が溢れだしているMCだった。

このまま、自分の代わりにロックしてくれ、と思って涙目になった。

現実と対峙しても魂を売り渡さず、媚びず、戦っている。純粋をまだ守り続けている、そんなフロントマンに胸が苦しかった。こういうのって、生きづらい道歩いてんなぁ、と思う一方で、とても心打たれる。それに、こういう人見てると、じっとりと後ろめたくなってくる。所々、純粋を捨ててしまった罪悪感が、意識にひたひたと貼り付くのだ。「夢」ってステージで叫んでる彼が本当に青くてまぶしくて、映画かよって。彼が叫ぶごとに、本当は現実に媚びていたくねえよ、っていう心の声は大きくなっていった。

GRAPEVINEの風待ちを、テレンの松本さんと一緒にケセラでカバーするっていう粋な計らいがあった。

演奏してるとき、皆がただの音楽好きな兄ちゃんになってて楽しそうだった。宍戸さんは、愛しの「松本くん」の横で歌ってるせいだったのもあるだろうけど。(宍「友達とかもう諦めようかなと思ってたんだけど…あのね、懐いちゃうんですよ僕」)歌い方も心なしかバインの田中さんに寄せてた。

好きな曲を演奏して、ただただ楽しそうなミュージシャン見るのってこんなに苦しくなるんだ。かっこいい!とかいうトキメキではなくて。彼らの中にある音楽への愛情を、そして音楽と共に横たわっているであろう「記憶」の存在に思いを馳せて、苦しくなる。

きっとこの人たち「大人」になれないんだ、自分とは違った方法で「大人」になっていくんだ、って思うと苦しさは募るばかりだった。ある意味ケセラの宍戸さんは欲がなくて、でも欲を見せろとプレッシャーがかかる場面もきっとあって、窮屈な時もあるんだろうな。

フロアの床にはステージの照明が反射して、ゆらゆら陰影を作り出している。バイン通ってこなかった人も、通ってきた人も等しく、演奏に耳を傾けている。「好きなことしかしたくない」「やりたいようにやりたい」本気でそう思えている彼に、少し前までの自分を重ねて余計に苦しくなりながら、爆発しそうなセンチメンタルを抱え込んで、ステージを見ていた。

「夢を追いかけるバンドマンにお金を落とし、お情けのように声援と拍手を送る構図を露骨に描いた、演出の超ヘタクソな青春パンク映画」を見終わった後みたいな、もう青春とか夢とか希望とか、そんな言葉が頭の中で渦巻いて仕方がなかった。

ステージでは吹っ切れてるような姿も、優しくておとなしいお客さんも、セトリ中盤に古い曲を持ってきてのびやかに歌い、演奏するバンドも、曲紹介やギターソロでノリきれない最前列も。なんだか全部が愛おしくて愛おしくて。

ずっと気取っていたい。いつまでこんな気持ちになれるんだろう自分は。いつまで夢という言葉を信じて語っていられるんだろう。