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Syrup16g tour 2016 HAIKAI @Zepp Tokyo(2016.12.15.)

Syrup16gを聞いている人たちは、皆狂うようにして聞いているだろうし、血だらけになって命削りながら聞いてると思う。何かと戦いながら、負けを認めず、反抗し、腐りかけても逃げない、だけど本当はとても繊細で、誰よりもボロボロになって人知れず傷ついている。世の中の不条理や孤独を一手に引き受けて、人一倍優しくて。シロップが好きな人たちって、自分の幻想かもしれないけど、そんな人ばかりなんじゃないかと思う。

 水鉄砲を持ちながら、腕を掲げ上げるシロップのファンの人たちは、自分を守るために武器を手に戦っているように見えた。水鉄砲という遊び道具は一見無邪気だけれど、疑似的に何かを殺める道具、として見ると、形骸化した狂気が宿っているようで怖い。

 透明な日の、灰色の霧がかかったような演出では黄色の水鉄砲が灰色に透けて、二色の不穏なコントラストを作り出し、余計に狂気じみていた。「狂気」っていう感覚は、躁状態の心理であったり、アルコールだったり、病的なものであったり、シロップの楽曲の根底に流れているものだと感じる。水鉄砲って、「普通に生きていて狂いそうになる人間」の隠喩みたいだ。

 誰よりも傷ついて、誰よりも戦っている人に、syrup16gの音楽はよく響く。

 だから、現実と戦うことを辞めて、全てを飲み込んでしまったらsyrup16gの歌は自分にはきっと届かなくなる。不条理や騙し合いを見過ごし、受け入れ、狡猾な立ち回りにも何も感じなくなり無痛状態に陥ったとき、シロップの歌はきっと響かなくなる。

 そして自分はきっと生存競争から降りる。そのときは、死にたいだなんて思えないほど衰弱している気がする。自分を傷つけたものに対して無関心になったとき、きっと「死にたい」という気持ちはどこかに消えて、ただただ自分を消滅させることにしか関心がなくなるのだろう。

 そうなる前に自分はシロップの音楽を思い出したい、と心から願う。自分を傷つけたものと対峙することで自分を守るために、ずっとずっとsyrup16gを聞きたい。本当に自分を消し去ってしまうことがないように、不条理や孤独や裏切りと向き合うのだ。

 今回、徘徊ツアーの東京2daysに行けたことは幸せそのものだ。失くしたもの、捨てたもの、忘れたもの、すり減ったもの。それらを見つけ、拾い上げ、思い出し、また歩き出せそうだと思った瞬間が確かにあった。必要なのは、喪失しかけた戦意を取り戻すことだった。それと、欠落していた楽しい・愉しいという感情を思い出すことだった。

 Syrup16gは自分にとって、傷ついたことを教えてくれる「心の痛覚」だ。傷だらけな心のわめきを代弁し、あるいはボロボロで上手く叫べない自分の代わりに大声で叫んでくれる存在だ。そしてシロップの音楽を聞きながら、全部終わりにしたい、もう消えたいと、時に心が叫び出すのは、まだ生きられるという逆説的な証拠のはずだ。

 二日目のアンコールの生活。「君に言いたい事はあるかい?そしてその根拠とは何だい?」と、語尾を少し変えて歌っていた五十嵐隆に自分は本当に救われてしまったと思う。syrup16gに、不意に、そして少し優しく歩み寄られたような気分になって、ハッとしたのだ。

 『生きていたい、だから自分を守りたい、そのためにsyrup16gが必要だ。』

 真っ当ではないことに当たり前のように反抗し、違和感を覚え、傷つき、「嫌だ」と感じる。こんな負の感情でさえも純真から生まれるというのだから、本当に難しい。

 そう思う一方で、この純真がなかったら何か自分の大切なものが失われ、枯れて、アンテナが朽ちて、感じられるものが激減する気がする。そして、痛みや傷に無自覚になり、刻々と死んでいく気がする。だから結局、純真を、自分を守りたいと思ってしまう。自分を守ることは、違和感に反抗することとほぼ同義になりえるし、違和感を察知する澄んだ感覚を持ち続けることでもある。

 こうしていつも、syrup16gを介して、死ではなく「生」に寝返るのだ。

 青灰色の煙の中で、Sonic Disorderを演奏するsyrup16gは、自分の中のイメージそのものだった。初めてこの曲を聞いたとき、ぼんやりと煙の向こう側にいるような誰かを思い浮かべていた気がする。あのときは、きっとこの人たちのライブには一生行けないんだろうな、なんて思っていた。記憶が過去へ過去へと引き戻され、昔と今が交錯して意識が遠のき、頭の中まで霧がかかったかのように視界が眩んで―― 圧倒的にその場で一人になっていた。

 Syrup16gは、あなたにとってどんな存在なのだろうか。