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サカナクション流のマイノリティ賛歌、モスという曲

朝、家を出ようとしてマンションの外壁に力なく翅を休めている蛾を見かけると、ぎょっとする。そこだけまだ日付が変わっておらず、ひっそりと夜の余韻が漂っているような。

まるで人目を避けるかのように暗く、日の当たらない場所を選んでやってきた珍客。
朝の世界に、蛾の居場所は無い。

多くの生物が昼間に活動する中、夜の闇に生きる生き物。寝静まった街の街灯に群がり、チラチラと鱗粉を躍らせる。遺伝子に組み込まれた「走光性」のせいだ。生き方そのものがマイノリティに見えるし、どこか「居場所を追われた」集団のようにも見える。夜な夜な音楽と酒につられてライブハウスに集まる人種も、蛾の走光性に似たような「習性」ではあるが。

サカナクションと蛾の親和性は高い。

昼間にひらひらと美しく飛び回る蝶が「陽・昼・多数派・マジョリティ・協調性」の隠喩だとすれば、夜にちらちら妖しく飛び交う蛾は「陰・夜・少数派・マイノリティ・個性派」のメタファーである。蝶がサナギから羽化する場面というのは、何かと「美しく生まれ変わる」であるとか美化された物語の引き合いに出される。よって「サナギが蝶になる」というのは、ある意味手垢のついたマジョリティの表現だ。そこをサカナクションは『繭割って蛾になる マイノリティ』と歌ったのは発明だと思う。特に「割る」という言葉に垣間見える意志の強さである。マイノリティは教室の片隅で自我を殺して生きているのではなく、彼らにも彼らの美しい世界があり、筋があり、アンダーグラウンドを選び取って生きているのだ、と賛美してくれるような心強い歌詞だと思う。

『雨に打たれ羽が折りたたまれても』という歌詞も一癖あって叙情的で大好きだ。蛾は翅を広げて止まるのが普通であるから、翅が折りたたまれてしまったら蝶と同じであり、マジョリティ側への転落であるし、アイデンティティの喪失でもある。それでも『飛び交う蛾になる マイノリティ』なのであるから、多数派に染まらずに、好きなものを好きなように探して遊ぶ音楽変態やサブカル人間たちの応援歌にも聞こえてきて、モスという曲はマイノリティ賛歌として受け入れられていくのでは、と思う。教室の皆が好きな曲ではなく、ちょっと音楽通を気取ったアイツの好きな曲でもなく、僕だけが知っている、僕にしか分からない「最高」を探したいのだ。『僕はまだ 探していたいんだ』である。

『揺れてる心ずっと 三つ目の眼』という歌詞は、よく一郎さんが話している、白線の上をまたいで左右にバランスを取っている感覚のことだろうか、と思った。マイノリティ・マジョリティのどちらにも振り切らない、絶妙なバランス感覚はサカナクションの持ち味だ。「三つ目の眼」は「客観性」のことで、彼らは常に「三つ目の眼」を持って、自分たちをセルフコントロールしているのだろうと思う。

好きなものは比べられない。好きなものは好き。私はこれが好き、と思っていて絶対に良い。それが私らしいし、あなたらしい。学校に話が分かる人がいなくても、誰かに笑われても、好きを辞める必要なんて無い。私は『連れてく蛾になる マイノリティ』と歌ってくれる、サカナクションが大好きだ。これからも音楽の広い海の中を漂って、私だけの「好き」を探す遊びをしていたい。